【最新】富山県腎友会組織図(平成27年2月22日現在).jpg

富山県腎友会について

風化させてはならない
~ 35年前の透析の実態 ~

はじめに
富山県腎友会は今年で 35 周年になります。近年は患者の高齢化が進み、患者会への無理解者が増えて、ある時には 100%近かった組織率が 70%を割る大変残念な状態となってきました。
これ以上の低下は組織運営上からもいろいろ問題が出てくることになります。 そこで腎友会設立当時、透析患者がどんな状態の中で、どんな気持ちで『人工腎臓友の会』を設立したのかを会員及び未加入の方たちに知ってもらい、患者会の必要性を訴え、会員数を増やしていかねばならないと考えています。
昭和 45 年 5 月 23 日、初めて富山での透析が富山赤十字病院で行われたのですが、当時を知る方々が徐々に少なくなってきている中で嬉しいことに、その日その時に最初の患者であった宮島正司さん(現、横田病院腎友会)、Drの林省一郎先生(現、元町内科医院院長)、そして透析室看護婦長だった藤村和子さんが、今もお元気でお過ごしでいらっしゃいます。そして会報等から当時に関する記録を調べたところ、林先生の第 30 回定期総会における記念講演記録や、30 周年記念誌に載った宮島さんへのインタビュー記事、富山赤十字病院の 11 番目の透析患者で新潟県能町から富山へ通院されていた太田正雄さん(富山県腎友会の設立に関わり、10 年間事務局長を務めるなど富山県腎友会のために大変力を尽くされました。)が、平成 5 年の定期総会に来て講演していただいたときの記録などが残っていました。太田さんは新潟県に帰ってからも長らく活躍されていました。
これらの記録を読み返し、また藤村婦長さんをご自宅に訪問して、当時のお話を聞かせていただくなどして、この拙文を書き始めました。
ずいぶん前置きが長くなりましたが、腎友会創立時に懸命に生きようとした人々の心を受け継いで、これからも透析患者である私たちが質の高い透析生活を送り、質の良い透析医療を受け続けることができるために、腎友会活動を皆で盛り上げ、組織力の強化を計ろうではありませんか。

たくさんの死
昭和 41 年ごろにアメリカのミルトンロイ社の機械が日本に入り、名古屋の中京病院で最初の透析が開始、全国数か所の大学病院でも導入され、新潟大学で勤務されていた林先生も透析に携わることになりました。
昭和 43 年頃になると患者が増えてきて日本透析医学会の前身に当たる人工透析研究会が発足。しかし透析の効果は顕著であったけれどまだまだ機械は少なく、金沢大学でも2台しかなく、60 人が待っている状態だったそうです。
2台の恩恵にあずかれない人達は腹膜灌流といって、今のCAPDとは違い、1回ごとに腹膜穿刺をし、1晩2日かけて腹膜に生食を入れては出し、入れては出しを繰り返す方法です。勿論その間寝たきりでとてもつらいものでした。
そしてやっと終わったと思ったら3~4日ほどたつとまたしなければならない、尿毒症といわれていた腎不全患者は助かる見込みもなく、腹膜灌流で命を繋いでいるしかありませんでした、中には 60 回もした人がいたそうですが結局みんなほとんど亡くなって2いきました。
いったい何人の人が尿毒症で亡くなっているのか、藤村婦長さんは富山市役所へ調べに行ったそうです。何と1年に 100 人以上の人が亡くなっていました。赤十字病院でも透析を考えていないのか、透析ができたらたくさんの命が救われるのに、と何回も思ったそうです。しかし看護部長さんに相談すると、「透析をするなど大変なことなのよ。」と返事はいつも同じでした。
ところがそうした中で、ある日院長先生が、「日赤は本年度の計画の中で、透析導入を一番の仕事として計画している。新潟大学に専門医を依頼しているところだ。」と話されたのを聞いた時、婦長さんは、ビックリして涙が出そうになったそうです。
そして45年4月、専門医(林先生)が赴任されて急に忙しくなりました。病室をつぶして透析室に改築する仕事や中庭には井戸掘りが始まり、Drを中心にスタッフも透析について勉強会が始まりました。愛知の中京病院へ見学実習に行くなど目が回るほどでした。中京病院では、30 名の透析患者が元気に通院しており、自分のキール型の透析器のメンブラン張りを手伝っていたのが強く心に残ったそうです。

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